• 其の一 東海朝曦(とうかいちょうき)
  • 其の二 西嶼流霞(さいしょるか)
  • 其の三 南郊麦浪(なんこうばくろう)
  • 其の四 北峯積翠(ほくほうのせきすい)
  • 其の五
  • 其の六 雲亭龍涎
  • 其の七 松径濤声
  • 其の八 仁堂月色
六諭衍義大意

壱、孝順父母

父母ふぼ孝順こうじゅんなれ 父母に孝行しなさい

弐、尊敬長上

長上ちょうじょう尊敬そんけいせよ 目上の人を尊敬しなさい

参、教訓子孫

子孫しそん教訓きょうくんせよ 子孫を教え導きなさい

四、各安生理

おのおの生理せいりやすんぜよ 各々の生業にあまんじなさい

五、和睦郷里

郷里きょうり和睦わぼくせよ 村里にうちとけなさい

六、毋作非為

かれ 悪いことをしてはならない

孝順父母 父母に孝行しなさい 尊敬長上 年上の人を尊敬しなさい 和睦郷里 郷里の自然や人を愛し仲良くしなさい 教訓子孫 子孫を教育しなさい 各安生理 自分のやるべきことを成し遂げなさい 毋作非為 悪いことをするなかれ
漢詩人 《程順則漢詩文集 「雪堂雑俎」》せつどうしぶんしゅうろんぴょう
東苑八景  《程順則漢詩文集 「せつどうえんゆうそう」》

其の一 東海朝曦(とうかいちょうき)東海朝曦とうかいちょうき





 程順則の遺した直筆の東苑八景の東海朝曦詩文 東苑は御茶屋御殿うちゃやうどぅんと呼ばれる当時の迎賓館の役目さえ果たした遠州流書院造えんしゅうりゅう しょいんづくりを取り入れた王家の茶室だった建物で崎山町の断崖の上にあった。その場所からは360度視界*註1が開けて見渡せる景観の佳いところで順則はこの地から茶の手前を作法に則りながら八景の詩を詠んだようです。
宿霧新開敝海東
宿霧しゅくむ あらたに開けて 海東かいとう ひらく、
扶桑万里渺飛鴻
扶桑ふそう 万里ばんり びょうたる 飛鴻ひこう
打魚小艇初移棹
打魚だぎょの 小艇しょうてい 初めてさおうつせば
揺得波光幾点紅
ゆれれて得たり波間なみまに光る 幾点いくてんあか
 
東海朝曦とうかいちょうき 詩訳》
直訳すれば、霧が晴れて海が東の方から明るくなって来た頃に遠く日本の国が朧げに見えるようだ。そんな時に小舟の漁師が初めて竿を動かしてその揺れる瞬間に波間に輝く照り返しが 赤く光るのを観たとなる。 なんとも翻訳とは味気のないものだ。詩を万人に理解させようとかみ砕くことほど愚かで情けない行為はない。 こんな素晴らしい詩は字面を眺めて己の感情のままに感じ取ることが大切だ。 だが、そう言ってばかりもいられない、この漢詩には程順則名護親方の心が刻まれているのだからその心を読み解くことが出来なければいくら感動的に詩に耽ってみたところで詩に込めた真意を読み解くことが出来なければ創作者の意図した期待を裏切ることにもなりかねない。 朝霧が朝日を浴び東の海が綺麗に見えてきた 広い海原を鳥たちが羽ばたいている日本が遠くに漠然と目に映るようだ 投網の小舟が初めて棹を動かし時に、 波が揺れ漣に朝日の鮮やかな煌めきを観た  *扶桑=中国の東方、日本のこと。  *打魚=網を投じて魚を捕る。打魚の小艇=小さな漁船、サバニのことだろうか。  *東・鴻・紅は漢詩の常套句上平声一東韻
この詩を詠んだ御茶屋御殿からは東の与那原湾も見渡せるほどの高台*註1で慶良間海峡の青い海に浮かぶ魚船が今まさに漁をしている瞬間を見て取れたのでしょう。順則はその素晴らしい一瞬のキラメキに感動して見事な詩を詠んだのです。
*註1:現在は周囲が藪が高くて景観は不十分です。南から東にかけては2m程の高場に登って見渡せますが東の与那原方面は建物などに景観が遮断されて往時を偲ぶことはできないでしょう。また、ついでですが漢詩訳二行目の扶桑万里渺飛鴻の渺飛鴻は「飛鴻渺ひこうびょうたる、またはおぼろなる、はるかなる」と読み下すのが原則ですが、順則の詩の真意を汲んで倒置読みせずにそのまま読んで訳意の逆転を試みました。「渺」の語彙は中国では漠然的な意味合いに用いますが、そのまま直訳すると訳詩が不明瞭になることを回避し霧が晴れて遥かな大和さえ一瞬目に映えるようだと詠んでいるとの訳にしてみました。



 「扶桑万里渺飛鴻」は程準則が大和への帰属を望んでいたと思える句である。海原が限りなく広がり、遥かに霞んでいる大和(扶桑)も鴻(おおとり)であればわけなくいくことができように…と心に秘めて詠んでいるんですね。 詩の 詩訳として単に広い海をに遠く大和を展望したい気持ちを詠んでいるだけのようだが、その中身は深い。渺たる飛鴻は中国語的には一瞬の感動的な場面とでも言うべき表現なのだろうけれど、平敷屋友寄組の大量処刑がなされることになる革命的な政治思想の醸成期を迎えていたこの時代に程順則が編纂している詩集だと捉えることでその 詩訳も朝敏の貧家記と同様に隠されたメッセージが塗りこめられていると考えるべきであろう。朝敏の貧家記は事件簿の様相でもあるが順則の東苑八景にはこれからの世替わりに待望の傑出した人物の登場に期待を寄せている風情が書き込まれている。雪堂51歳の時に弱冠17歳の平敷屋朝敏らを伴って「江戸上りえどあがい」している。その往復の長い道中で旅すがら順則は朝敏に琉球の大和帰属が叶わぬものであろうかと嘆いたことであろう。  私にはこの雪堂の詩の断片から当時の琉球人たちのアイディンテティに対する苦悩を詠み取ることができる。当時の三司官のうち二名は大和帰属を考えていたはずである。それが何故叶わなかったのか。
 徳川第七代将軍の家継の正徳の治世が続いていたのならもっと違った展開になったはずであった。こう考えると甲府藩が将軍職に就いた時にお家断絶の処置によって後嗣の確保がなされなかったことが琉球国の運命を左右したと言わざるを得ない。仮に第七代将軍が長命だったなら新井白石の政策のすべては粛々と実行され琉球の面倒も薩摩に阻害されることもなく朝敏の思惑通りに運んでいたことだろう。その無念も程順則は充分に熟知して艱難辛苦の時代を迎えた原因だと受け止めていた。 順則は首里城の東隣にある東苑(首里崎山1丁目、首里カトリック教会近く)から慶良間海峡を眺めて東苑八景を詠んでいる。見つめる方向は大陸の方向へ向いていても心は常に扶桑国の大和へなびいていた。その琉球人の大和帰属への願望を薩摩は蔡温と組んですべて根絶やしにし大和と琉球の縁故関係を闇に葬っている。あの時代に何故蔡温があれだけの強大な権力を行使できたのか。中国のバックバーンを得ていただけではないはずである。この落書事件に関する薩摩藩の公文書が表に出てこないことが不自然さを物語っていると考えるべきである。  順則は朝敏の処刑後時を待たずして世を去った。  この漢詩にはその想いが込められているのです。         「東苑八景とうえんはっけいそのの一 東海朝曦とうかいちょうき

東屋敷平仁 解説;編集 | To Top | 西嶼流霞

東苑八景  《程順則漢詩文集 「せつどうえんゆうそう」》

其の二 西嶼流霞(さいしょるか)西嶼流霞さいしょるか





海角清明嶼色丹
海角清明にして嶼色丹なるかいかくせいめいにしてしょしょくたんなる
流霞早晩漲西巒
流霞早晩に西巒を漲りりゅうかそうばんにせいらんをみなぎり
若教搦管詩人見
若管を教搦*註1る詩人に見せなばもしかんをとるしじんにみせなば
定作箋頭錦繍看
定て錦繍を看て箋頭に作すなりさだめてきんしゅうをみてせんとうにさくすなり
 
西嶼流霞さいしょるか 詩訳》

島影も茜を帯びるほどの夕暮れ時に霞が流れて西の慶良間の島々も姿を現してきた、もしもこの情景を高名なる詩人にでも見せたならさぞかし美しい詩を興じるだろうなと詠んでいるのだ。これなどは順則自身より素晴らしい詩人がいてその詩人にもこの美しい夕暮れの情景を見せてその詩を鑑賞してみたいものだと言わせしめていると看破しなくてはならない。勿論それは朝敏の事であり、朝敏はこの時間には明倫堂で教鞭を執っている頃なのであろう。

*註1
教搦ると読んでいるがこの語彙は「教授」であり教授を管するとは業務としての教授を行う人の意となる。そうなると当然琉球国で唯一の明倫堂の教師である才稀なる朝敏のことだと知れる。
 「東苑八景とうえんはっけいそのの 二西嶼流霞さいしょるか
東屋敷平仁 解説;編集 | To Top | 南郊麦浪
東苑八景  《程順則漢詩文集 「せつどうえんゆうそう」》

其の三 南郊麦浪(なんこうばくろう)南郊麦浪なんこうばくろう





錦阡繍陌麗南塘
錦阡繍陌麗しき南塘きんせんしゅうはく うるわしきなんとう
天氣清和長麦秧
天氣清和にして麦秩長けるてんきせいわにしてばくふたける
一自東風吹浪起
一自東風吹きて浪の起こればひとたびこちふきて なみのおこれば
緑紋千頃映渓光
緑紋千頃の渓光を映つすりょくもんせんこうの けいこうをうつす
 
南郊麦浪なんこうばくろう 詩訳》
ひと際美しい南の大地よ、天気晴朗にして麦の穂も伸びやかだ。この季節の強風が吹けば風になびく麦の穂が揺れて畔の緑もまるで谷川の煌めきのような輝き見せてくれる。
これは目線を南に変えて現在の金城ダムの東方向あたりから南風原方面を眺望ちょうぼうした時の詩であろうか。こども病院辺り一帯は麦畑が広がっていたのかも知れないですね。 そのあたりの様子がまぶたを閉じていると空想できるようだ。 順則の眺望が身近に現実となって現れて東風こちが心を吹き抜けてゆく気配を感じたりするようだ。
        「東苑八景とうえんはっけいその南郊麦浪なんこうばくろう
東屋敷平仁 解説;編集 | To Top | 北峯積翠



 

東苑八景  《程順則漢詩文集 「せつどうえんゆうそう」》

其の四 北峯積翠(ほくほうのせきすい)北峯積翠ほくほうのせきすい





御茶屋御殿うちゃやうどぅん*註1
北來山勢独嵯峨
北来の山勢は独り嵯峨たりほくらいのさんせいはひとりさがたり
葱麓層層翠較多
漸畿層々として翠多を較ぶるぜんきそうそうとして すいたをくらぶる
始識三春風雨後
始めて識りぬ三春風雨の後なるをはじめてしりぬさんしゅんふううのあとなるを
奇峯如黛擁青螺
奇峰黛の如く青螺を擁すきほうくんのごとくせいらをようす
 
《 詩訳》
北峯積翠 ほくほうのせきすい 北峰の深緑 視野を北へ向けると山の峯が険しく聳えている。険しさが幾重にもありさらに緑の生い茂るさまは一際だ。春の雨季が去った後で初めて目にした光景だが険しさが碧い塊のように見えて緑が薫ってくるようだ*註1
*註1:
※これは北を眺めた順則の端的な気持ちが表現し尽くされている。ぐるりと島の風景を巡って見渡すとなんと北の眺めの険阻なことである。嶮岨だがそこには累々と茂樹林が層をなし春にたっぷりと恵みの雨を得て緑が薫風を醸している。  順則にとって琉球の島の琉球たる威厳を漂わせた人をも寄せ付けない荒々しさや逞しさの自然の景観の面持ちが民衆の心にもこの山のような景色と同じようにあるのだと確信している。それは格段の存在意義であったであろうと考えられる。薩摩と中国の板挟みで従属を余儀なくされていても本質的な民族感情は北の険しい山々の奥の奥へとおし隠してありその隠した想いの芳しい香りをいつでも嗅ぎ取ることができると訴えている。 程順則は中国へ五度も渡っているし『指南広義(しなんこうぎ)』や『六諭衍義(りくゆえんぎ)』という本を持ち帰って安全な航海術や道徳教育に熱心であった。その傍らで垣間見られる大和政権への帰属願望を私は封じ込めることができない。平敷屋朝敏や友寄安乗などより先んじて大和への帰属を望んでいたことが彼の詩の中で垣間見ることができる。名護親方としていつまでも琉球人の心の師となっていてくれることにも頷ける、反面その名護親方を崇拝する地の名護市が現在は反日工作機関の牙城の体をなしていることに驚かづにはいられない。戦争への反省の意識が反戦平和活動として工作員に逆利用されている証左でもあるのだろうと思うとやりきれなさで胸が一杯になる。
北はいつまでも荒涼殺伐のの地ではない。豊かな大地には芳醇な香りを湛える甘味な果実が育ち、四季折々に美しき花々が百花繚乱と咲き誇り、年中休むことなく幾多の野菜を生産してくれる。恵みの大地を持った人々に険阻な山々も今は憩いの場である。
東苑八景とうえんはっけい其の四 北峯積翠ほくほうのせきすい
東屋敷平仁 解説;編集 | To Top | 石洞獅蹲



東苑八景  《程順則漢詩文集 「せつどうえんゆうそう」》

其の五 石洞獅蹲しゃくどうしそん





 程順則の遺した直筆の東苑八景の東海朝曦詩文 東苑は御茶屋御殿うちゃやうどぅんと呼ばれる当時の迎賓館の役目さえ果たした遠州流書院造えんしゅうりゅう しょいんづくりを取り入れた王家の茶室だった建物で崎山町の断崖の上にあった。その場所からは360度視界*註1が開けて見渡せる景観の佳いところで順則はこの地から茶の手前を作法に則りながら八景の詩を詠んだようです。
仙桃花發洞門開
仙桃の花溌して洞門を開くせんとうのはなつかわしてどうもんをひらく
猛獣群成安在哉
猛獣群れを成し安らかに在る哉もうじゅうむれをなしやすらかにあるや
石将琢為新白澤*註1
石将琢しざれば新たな白澤*註1となしいしはたまたたくしざればあらたなるせきたくとなし
四山虎豹敢前来
四山虎豹に敢えて前来すしざんこひょうにあえてぜんらいす
 
《其の五 石洞獅蹲しゃくどうしそん 詩訳》
東苑八景は順則が出版した琉球における最初の漢詩文集『中山詩文集』(1725年)のなかに編纂されているのでこれらの詩は1725年以前に書かれたものだと理解できる。その詩のなかに順則の思想が織り込まれているのだがこの頃すでに明倫堂も順風満帆の勢いが感じられているはずでそこで教鞭をとる朝敏をはじめとして平敷屋友寄組の社中の同志たちは順則を中心にして琉球王国の未来の政治思想の構築に競い合うほどの力強さを見せていたはずである。その状態を見ている順則がその同志たちの育ちゆく様子を桃の花の一斉に開く勢いのよさになぞらえてのこの詩だと受け止めると、今まさに勢いよく行動する時を詠み表していると捉えられる。古き汚れを落として新たな装いで富める国とするために石澤のような神獣を求めていた。 だが、その石澤はすでに姿を現し果敢にも孤軍奮闘を始めていると綴っているのだ。*註1
白澤とは*註1白澤は頭に三つの目を持ち、さらに体にも三つ目がある。 中国のみならず日本でも白澤の絵は魔除けとして崇められたりした。 実に万能な聖獣である。
出典註1妖怪うぃき的妖怪図鑑
麒麟(きりん)や鳳凰(ほうおう)と同じく、徳の高い為政者の治世に姿を現すとされる。 東望山(中国湖西省)の沢に獣が住んでおり、ひとつを白澤と呼んでいた。 白澤は能く言葉を操り万物に通暁しており、治めしめるものが有徳であれば姿をみせたと言う。 中国神話の時代、三皇五帝に数えられる黄帝が東巡したおりに出会ったと言われ、白澤は一万一千五百二十種に及ぶ天下の妖異鬼神について語り、世の害を除くため忠言したと伝えられる。 『礼記』によると、冬になると陽気を受けて角を生じるとあり、白い躰に陽を受ける姿を見て、白澤となったのかもしれない。 鬼灯の冷徹でも博識であり、過去に地上に落ちて黄帝の軍に囚われた際、見逃してもらう代わりに一万千五百二十の妖怪について教えた。 また、獄卒になる前の鬼灯に中国の裁判制度を教えたのも実は彼である(ただし、現在に至るまでお互いの正体に気付いていなかった)。 絵のセンスは壊滅的だが、本人は無自覚で自信だけはピカソ級。 茄子には自身の作品の「頭に残るところ」を見込まれている。紙に書かれた絵を実体化する術を使うことができるが、絵が下手すぎて何の役にも立たない。 また、白澤に遭遇した者は子々孫々、繁栄するのだという。 出典: 白澤註1 - 妖怪うぃき的妖怪図鑑
東苑八景とうえんはっけい其の五 石洞獅蹲
東屋敷平仁 解説;編集 | To Top | 雲亭龍涎



 

東苑八景  《程順則漢詩文集 「せつどうえんゆうそう」》

其の六 雲亭龍涎雲亭龍涎うんていりゅうぜん





凌雲亭子有龍眠
凌雲亭子に龍眠るりょううんていしに りゅうねむる
吐出珠璣滾滾円
吐き出したる珠璣 円にて滾滾たりはきだしたるじゅき まどかにしてこんこんたり
今日東封文筆秀
今日東封文筆秀こんにちとうふうし ぶんぴつにひいでる
好題新賦続甘泉
好題新賦続甘泉こうだいしんぷ かんせんにつづく
程順則の「雲亭龍涎」に次のような東苑での催しのことが伺える。その時に程順則はどのような詩題を甘泉のように湧出させたのか。それは一連の「中山東苑八景」の詩群であったのだろうか。 凌雲亭子有龍眠   凌雲亭の近くに龍の眠るところがある。 吐出珠璣滾滾円   吐き出す水玉は、こんこんと流れ出てまどやかである。 今日東封文筆秀   今日、ここ東封(雩壇)は文筆に優れている。 好題新賦続甘泉   詩のための好題の新しい賦が、甘泉のように湧いてくる  
《其の六 雲亭龍涎 詩訳》
未だ知られていない臥竜の如き素晴らしい器の人物がいる、滾々と湧き出る才能は日本に並ぶものもないほど泉から水が湧きだす如くに絶えることもない。
これなどは明らかに朝敏の才能の素晴らしさを詩に込めているとしか思われない。順則はこの詩文集編纂の時期の朝敏を眺めていて得も言われぬ羨望のような朝敏評を持っていたようだ。それはまるで李白の詩。「猛虎の尺草に伏す、蔵ると雖も身を蔽い難し」のように朝敏を眠れる獅子か臥竜鳳雛と見立て己は老いても老驥櫪に伏すも、志千里に在ありと述べた曹操の心意気と似ていて血気盛んな頃だったようだ。これだけの詩を堂々と遺していながら志半ばで潰い果てた無念はいかばかりであったことだろう。



東苑八景とうえんはっけい雲亭龍涎
東屋敷平仁 解説;編集 | To Top | 松径濤声



東苑八景  《程順則漢詩文集 「せつどうえんゆうそう」》

其の七 松径濤声松径濤声しょうけいとうせい





 程順則の遺した直筆の東苑八景の東海朝曦詩文 東苑は御茶屋御殿うちゃやうどぅんと呼ばれる当時の迎賓館の役目さえ果たした遠州流書院造えんしゅうりゅう しょいんづくりを取り入れた王家の茶室だった建物で崎山町の断崖の上にあった。その場所からは360度視界*註1が開けて見渡せる景観の佳いところで順則はこの地から茶の手前を作法に則りながら八景の詩を詠んだようです。
行到徂徠萬籟清/dt>
行いては到たる徂徠に籟清の萬おこないてはいたるそらいにらいせいのよし
銀河天半早潮生
銀河天半早潮生*
細聴又在高松上
**
葉葉迎風作水聲
**
 
《其の七 松径濤声 詩訳》
この詩を詠んだ御茶屋御殿からは東の与那原湾も見渡せるほどの高台*註1で慶良間海峡の青い海に浮かぶ魚船が今まさに漁をしている瞬間を見て取れたのでしょう。順則はその素晴らしい一瞬のキラメキに感動して見事な詩を詠んだのです。
*註1:現在は周囲が藪が高くて景観は不十分です。南から東にかけては2m程の高場に登って見渡せますが東の与那原方面は建物などに景観が遮断されて往時を偲ぶことはできないでしょう。



東苑八景とうえんはっけい其の七 松径濤声しょうけいとうしょう
東屋敷平仁 解説;編集 | To Top | 仁堂月色



東苑八景  《程順則漢詩文集 「せつどうえんゆうそう」》

其の八 仁堂月色仁堂月色じんどうげっしょく





 程順則の遺した直筆の東苑八景の東海朝曦詩文 東苑は御茶屋御殿うちゃやうどぅんと呼ばれる当時の迎賓館の役目さえ果たした遠州流書院造えんしゅうりゅう しょいんづくりを取り入れた王家の茶室だった建物で崎山町の断崖の上にあった。その場所からは360度視界*註1が開けて見渡せる景観の佳いところで順則はこの地から茶の手前を作法に則りながら八景の詩を詠んだようです。
東方初月上山堂
東方初月上山堂とうほうよりういづきさんどうにあがり
万木玲瓏晩霜帯
万木玲瓏晩霜帯ばんぼくれいろうそうたいのくれ
皇華照見鉄筆新
皇華照見鉄筆新こうかしょうけんしふでもあらたにしてくろがねとなす
千秋東苑輝光有
千秋東苑輝光有せんしゅうにとうえんのひかりありてかがやく
れいろう 【玲瓏】 1. 美しく照り輝くさま。 「―たる朝空」 2. 玉などが、さえたよい音で鳴るさま。 「―、玉をころがす 【皇華照見】 天皇の訓え=勅諭  
《其の八 仁堂月色 詩訳》
東より初月山堂にあがる 万木玲瓏し霜帯の暮れ 皇華照見し筆新たにしてくろがねとなす 千秋東苑光有りて輝く *註1 名護親方程順則がこの詩に込めたのは平敷屋朝敏への期待である。 意味を直訳すれば堂の上に上がった月を詠んでいるだけの風景描写のように読み解くのが一般的な詩を解する方々の手法であろう。 しかし、私はあくまでも平敷屋朝敏の思想を読みとく一端として程順則の詩集のどこかにその手掛かりがあるはずだと感じて考え続けていた。 その中で、この東苑八景は時期も「落書事件」の勃発の遥か早い時期に書き上げられていて当然、朝敏に思想的な影響を与えている程順則ではあるがこの「東苑八景」を編纂したころにはまだ平敷屋友寄組の活動は実体するなかったことであろうから彼らの思想的な影響力を見出す語句語彙は極めて少ない。 極めてどころか、ほとんど窺うことができないほどではと余り解読に時間を要してはいなかった。 だが、少ないものの完全に無いわけでもなく、やはりかなりの強靭な大和思想への思い入れが僅かではあるが散見できるかも知れないと考えを改めて読み解いてみた。 そのなかでもこの「仁堂月色じんどうげっしょく」には明らかに大和朝廷への帰属復活を期待し願う程順則の気持ちが如実に表れている。 仁堂は程順則の弟子たちが集う場であり、そこに新たな月が煌々と輝き霜の降るように冷却された執政時期に、満を持して大和朝廷への帰属を期待できる人物が現れていつかは光り輝く時を得たと詠んでいることに気づかなければならない。



 

東苑八景とうえんはっけい其の八 仁堂月色
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