幻想琉球の写真家東屋敷平仁が半世紀の時を翔けて歴史難題に挑む。悠久の歴史の中で闇に葬られた琉球王国の大陸手法による政治弾圧事件を推理し、確かな時代考証の真実史として十八世紀初頭に勃発した幕藩体制帰属運動で味方に引き入れようと図った薩摩に惨い裏切り行為を受けて計画が発覚、時の三司官蔡温によって惨虐処刑された政治犯・平敷屋友寄組を現代感覚で解説する。
Heijin Agariyashiki Discription [Prologue- No.1 Jisei no ku.]
平敷屋 朝敏 貧家記 考序章
辞世 の句 考察改訂版Apr.18'77i.p
乱れ髪さばく 世の中のさばき 引きがそこなたら 垢もぬがぬ 朝敏辞世の句
みだれがみさばく よのなかのさばき ひきがそこなたら あかもぬがぬ
組踊り手水の縁 で知られる琉球王国の稀代の天才文人革命家・平敷屋朝敏は、尚敬王の治世に三司官蔡温によって反体制派への焚書坑儒の弾劾訴追を受けて抹殺され無念の辞世を遺し、安謝の珊瑚の白砂の刑場で磔八つ裂きの極刑に処せられて天逝した。
三十五歳の若さでこの世を去った朝敏に当時の民衆の誰もがその惨い仕打ちに涙したが独裁的な蔡温に反発する勢力は一掃されつくし、巷の世相には朝敏に関する話題は暗黙的タブーとなってしまった。事件の真相・原因・因果の全てが蔡温の命令でもみ消され後世はこの事件史の真相を究明する手がかりとなる全ての資料を奪われてしまった。 これだけ稀で優れた天才和文学者がその存在性のすべてを唯一数少ない文学作品にだけにしか見ることができないほど落書事件に関連した朝敏の情報を限りなく消滅し尽くしていることに驚かずにはいられない。何故こそうなったのか何ゆえに歴史を抹殺し捏造歪曲しなければならなかったのかを約半世紀にならんとするほどの年月を考え続けている。 事件の事細かな内容に関しては現代に伝わる公的な資料が皆無なので文献的な検証は不可能であり、あくまでも推理をつなぎ合せて考察することしかできないのだが、ここまでみごとに事件の全容を闇に葬ったと言う事実の事象を推考するだけでもおよそ日本の歴史上にはなかった大陸的権力弾圧の惨虐非道な様相がうかがい知れる。
この落書事件の顛末こそが大量処刑による恐怖政治で不都合な体制批判や思想者集団を弾圧し傀儡的に琉球王国の執権の中枢を牛耳っていた三司官筆頭蔡温の強大な権力を象徴する証であり蔡温がことのほか朝敏一派の行動や思想が琉球王国と大陸の冊封関係に重大な亀裂を与える大反逆罪と捉えた証左でもあろう。
私がこの事件の存在を知った最初の時期には落書事件の結末が中国からの渡来移民としての蔡温が大和文化への憧憬を捨てきれない琉球民への反感による私怨が招いた惨劇だと感じたものであった。大陸から渡来して来て代々、琉球王国の執権に関与しほぼ摂政政治的な権力構造の中枢を世襲的に継承しつつあった蔡家が琉球王国を掌握し続けるためには永続的に琉球国民が日本文化からの乖離脱却を図ることが必要だと考えていてその前途を多難にする平敷屋友寄組の日本帰属思想は三司官蔡温にとっては死刑宣告に等しい抗議行動であったことだろうと受け取っていた。 おしなべて考えをまとめると14世紀末に福建省から渡来して来た客家集団の久米三十六姓が蔡温の父蔡鐸の時代から王国への執政に台頭し蔡温が異例の三司官筆頭まで上り詰めていることに端を発しての私怨説のの見解の源であったが、時間を経るうちに客家集団そのものの中国での歴史的な動向や立場などをより詳しく知れば知るほどに、この落書事件の結末が私怨によるものではなく国家的な永続的な支配思想の暴力的謀略の可能性が浮上してきて、さらに現代の中国共産党によるチベットウィグルなどへの小国家や民族への異常な弾圧をネット動画などで目の当たりにし客家の中華思想による世界覇権の野望のそのものの顕著な版図の一端に明らかに琉球国も含まれていることを認知するに至ったのであった。 そのつぶさな情報の蓄積によって単純な世間知らずによる私怨説は粉塵の如くに吹き飛んで以来、朝敏ら平敷屋友寄組の革命的行動の記録の隠滅が個人的な思惑を離れた異形の大陸の国家的侵略思想と計略による謀略的暴挙であると思い知らされてその事実に戦慄し消された真実を手繰り寄せて見たくなったのである。 誰しもが朝敏と蔡温の両者の生い立ちから琉球王家の直系である朝敏の和文学への造詣の深さによる時代背景的な民衆の要求を受けて世間から注目を浴びている朝敏に対して支那人家系である蔡温が望みようのない民衆からの支持度合いに妬み嫉みが高じて事あるごとに朝敏と意見衝突していたことなどによる反目的な処断だと単純な理屈で考えてしまうであろうが、だが長い年月にわたって考え続けていると事件の複雑な事情の一端が見え始めて、その事が端緒となり絡みついた糸玉を解すように次々と事件の外郭を得るに至り今日、遂に全容的な核心へと辿り着いたと確信を持って事件の全貌を解明してみた。 あくまでも、事件の核心的な部分は事実としては全く知ることが出来ないので、「お国の難題落書事件」の扱いがその罪状に比して執り行われた同程度の日本の刑罰と比しても歴史上でも類を見ない残酷無比な処刑が実行された事実から類推的に推理を積み重ね、朝敏らの処刑後には一切の文物の記録が不可能だった中で口伝による朝敏の辞世の句や数少ない琉歌などの朝敏遺稿の研究に加えて琉球士族に伝統的に継承されていた家譜の記述などを参考にして考察を進めた。勿論、家譜への落書事件に関連する記述は廃藩置県以後の明治時代以降からの記述であると考えるのが妥当であろうから、出所が同一の可能性も否定はできないし少ない記述の全記述の真偽にも問題は隠されている。 重大な判決をして刑を執行した事件の問題となる部分が後世に再び芽吹くことがないように完全に根絶やしにしてその痕跡さえも残すことなく処理できた蔡温という人物の実力には驚くしかないが、大陸支那の中華思想による異形の行為であると理解すれば、それもそう驚くほどでもなく日常的な支那人のやり方であったと納得してしまう。 異形の工作をなりふり構わずにそうするしか王国の存続の手段を見出せなかった蔡温の時代の蔡温を含めた琉球王国の役人たちが舐めたであろう辛酸がどの程度なのかを量ることなどはできないが、その労苦よりもそうするしかなかった当時の琉球人の心情には痛切に同情せずにいられない。
中国との冊封関係と薩摩支配の板ばさみ・・・その中で起きた前代未聞の大和政権への回帰運動、それをなりふり構わずに阻止して隠蔽した焚書坑儒の支那人志向の覇権主義中華思想による弾圧迫害。
私はこの「落書事件」の真相をこう捉えた。
だからこの実行首謀犯朝敏に関する資料はわずかな文芸作品のみという怪奇な現象になっているのだと考察できる。 本来であればこのような大事件の真相は永遠に記録として残り、犯罪の程度とその罪状に科した刑罰の量刑、刑の執行に関する状況的な記述の公文書等の資料は必ず保存されているはずである。それがこの「お国の難題落書事件」に限って裁判や刑の執行に限らず事件の推移や事件の内容をすべて消滅させた根拠は類推すればするほど前述の「大和政権への回帰運動」であったろうと結び付けるしかなくなる。
日本の刑罰史上を遡ってもこれだけの大量な極刑履行事件は類を見ない。
藤原氏全盛の奈良平安時代のクーダター事件でさえ首謀者の一味皆殺しなどは無かった。 わずか首謀の要人2,3人が斬首されて結着するのがノーマルなのだが・・・。
この事件では罪状が「落書による騒乱罪」であることを明示していながらも15名の大量極刑。刑の執行方法も極めて残忍な多勢の刑吏(朝敏の場合には16名以上であったらしい・・・。)が木のささくれ立ったやり状の棒で突き上げては抜き、また突き上げては抜きと絶命するまで数時間かけて苦悶をあたえて執行したようである。
これは事件を起こした犯人に苦悶を与えるための刑ではなく、この刑の執行によって類似の思想犯への見せしめとするための刑の執行である。残虐性を見せ付けてこのような事件の再発防止とこの事件の隠蔽を容易にするためにより大勢を見せしめにして恐怖政治を引く必要が蔡温にはあったのだ。そこまで徹底した計算があったからこそ当時、庶民に人気があったであろう文人朝敏の残虐な処刑をした蔡温が後世にまで大偉人として琉球の誉れとまで言われてきたのであろう。
琉球を愛して命を捧げた朝敏、琉球王国の冊封存亡に死力をかけて臨んだ蔡温。
どちらも正義でどちらも立派だとしか他に思いようがない。
朝敏はこんな刑の執行にも気力を消滅させることも無く刑に耐え抜いていたようで、これを看かねた朝敏の弟が自ら申し出て一突きで落命させ冥途へ旅立たせたという逸話がある。この逸話は真意がどうであろうとそれほど朝敏は民衆に愛され民衆が朝敏の死を望んでいなかったことが根底にあったからこのような逸話が生まれたような気がする。実際のところ刑場の中に身内が入ることなどは絶対に不可能なはずだ。だが、あえてこの話が言い伝えとして残ってきたことを考えると刑吏の大勢の人間たちも誰一人として朝敏に止めを刺すことなど出来なかったのだと私にはそう思うしかない。
琉球の民衆のすべてが朝敏を愛してやまなかった。
これほどこの革命家朝敏一派への憎悪と怨みが感じられる処刑が執行されたということは逆に考察すれば蔡温にとっては朝敏思想が一大恐怖の要因であった証である。だからこそ根こそぎに消し去ってしまうしかなかったのであろう。
この事件の真相を認識し闇に放り込まれた不透明な部分を正しく理解し解明しない限りこの事件はただの「落書き事件」として世の中に定着し闇に葬り去られたままとなろう。
この辞世の句には朝敏の遺念 の切ない思いだけではなく人権法のない国家への辛らつな体制批判が込められている。
「間違いを糺すやり方にこそ間違いがある、だから素直にはなれぬっ!」・・・と朝敏は最後の最後まで自分を曲げずに蔡温を見据えて世を去った。 その時の情景は朝敏という鳳がさながら壮大な宇宙を翔けめぐる雄姿を誇示するかのように雅で厳かな気品を秘めた気迫で人間の尊厳である命を代償に贖わせて民への恐怖の見せしめとして政治を支配しようとする姑息な傀儡者蔡温を見くだし見さげて蔑視していたのであろうと感じ取るに十分すぎるほどのメッセージが朝敏の随筆貧家記に詠み連ねて綴られている。
それほどに朝敏のこの闘争にかける情熱の高まりは鬼気としたもであったことをもまた貧家記の四十首に及ぶ和歌の一句一字の語彙の言葉の節々から詠み解くことができる。
乱れ髪さばく 世の中のさばき 引きがそこなたら 垢もぬがぬ 朝敏辞世の句
みだれがみさばく よのなかのさばき ひきがそこなたら あかもぬがぬ
組踊り手水の縁 で知られる琉球王国の稀代の天才文人革命家・平敷屋朝敏は、尚敬王の治世に三司官蔡温によって反体制派への焚書坑儒の弾劾訴追を受けて抹殺され無念の辞世を遺し、安謝の珊瑚の白砂の刑場で磔八つ裂きの極刑に処せられて天逝した。
三十五歳の若さでこの世を去った朝敏に当時の民衆の誰もがその惨い仕打ちに涙したが独裁的な蔡温に反発する勢力は一掃されつくし、巷の世相には朝敏に関する話題は暗黙的タブーとなってしまった。事件の真相・原因・因果の全てが蔡温の命令でもみ消され後世はこの事件史の真相を究明する手がかりとなる全ての資料を奪われてしまった。 これだけ稀で優れた天才和文学者がその存在性のすべてを唯一数少ない文学作品にだけにしか見ることができないほど落書事件に関連した朝敏の情報を限りなく消滅し尽くしていることに驚かずにはいられない。何故こそうなったのか何ゆえに歴史を抹殺し捏造歪曲しなければならなかったのかを約半世紀にならんとするほどの年月を考え続けている。 事件の事細かな内容に関しては現代に伝わる公的な資料が皆無なので文献的な検証は不可能であり、あくまでも推理をつなぎ合せて考察することしかできないのだが、ここまでみごとに事件の全容を闇に葬ったと言う事実の事象を推考するだけでもおよそ日本の歴史上にはなかった大陸的権力弾圧の惨虐非道な様相がうかがい知れる。
この落書事件の顛末こそが大量処刑による恐怖政治で不都合な体制批判や思想者集団を弾圧し傀儡的に琉球王国の執権の中枢を牛耳っていた三司官筆頭蔡温の強大な権力を象徴する証であり蔡温がことのほか朝敏一派の行動や思想が琉球王国と大陸の冊封関係に重大な亀裂を与える大反逆罪と捉えた証左でもあろう。
私がこの事件の存在を知った最初の時期には落書事件の結末が中国からの渡来移民としての蔡温が大和文化への憧憬を捨てきれない琉球民への反感による私怨が招いた惨劇だと感じたものであった。大陸から渡来して来て代々、琉球王国の執権に関与しほぼ摂政政治的な権力構造の中枢を世襲的に継承しつつあった蔡家が琉球王国を掌握し続けるためには永続的に琉球国民が日本文化からの乖離脱却を図ることが必要だと考えていてその前途を多難にする平敷屋友寄組の日本帰属思想は三司官蔡温にとっては死刑宣告に等しい抗議行動であったことだろうと受け取っていた。 おしなべて考えをまとめると14世紀末に福建省から渡来して来た客家集団の久米三十六姓が蔡温の父蔡鐸の時代から王国への執政に台頭し蔡温が異例の三司官筆頭まで上り詰めていることに端を発しての私怨説のの見解の源であったが、時間を経るうちに客家集団そのものの中国での歴史的な動向や立場などをより詳しく知れば知るほどに、この落書事件の結末が私怨によるものではなく国家的な永続的な支配思想の暴力的謀略の可能性が浮上してきて、さらに現代の中国共産党によるチベットウィグルなどへの小国家や民族への異常な弾圧をネット動画などで目の当たりにし客家の中華思想による世界覇権の野望のそのものの顕著な版図の一端に明らかに琉球国も含まれていることを認知するに至ったのであった。 そのつぶさな情報の蓄積によって単純な世間知らずによる私怨説は粉塵の如くに吹き飛んで以来、朝敏ら平敷屋友寄組の革命的行動の記録の隠滅が個人的な思惑を離れた異形の大陸の国家的侵略思想と計略による謀略的暴挙であると思い知らされてその事実に戦慄し消された真実を手繰り寄せて見たくなったのである。 誰しもが朝敏と蔡温の両者の生い立ちから琉球王家の直系である朝敏の和文学への造詣の深さによる時代背景的な民衆の要求を受けて世間から注目を浴びている朝敏に対して支那人家系である蔡温が望みようのない民衆からの支持度合いに妬み嫉みが高じて事あるごとに朝敏と意見衝突していたことなどによる反目的な処断だと単純な理屈で考えてしまうであろうが、だが長い年月にわたって考え続けていると事件の複雑な事情の一端が見え始めて、その事が端緒となり絡みついた糸玉を解すように次々と事件の外郭を得るに至り今日、遂に全容的な核心へと辿り着いたと確信を持って事件の全貌を解明してみた。 あくまでも、事件の核心的な部分は事実としては全く知ることが出来ないので、「お国の難題落書事件」の扱いがその罪状に比して執り行われた同程度の日本の刑罰と比しても歴史上でも類を見ない残酷無比な処刑が実行された事実から類推的に推理を積み重ね、朝敏らの処刑後には一切の文物の記録が不可能だった中で口伝による朝敏の辞世の句や数少ない琉歌などの朝敏遺稿の研究に加えて琉球士族に伝統的に継承されていた家譜の記述などを参考にして考察を進めた。勿論、家譜への落書事件に関連する記述は廃藩置県以後の明治時代以降からの記述であると考えるのが妥当であろうから、出所が同一の可能性も否定はできないし少ない記述の全記述の真偽にも問題は隠されている。 重大な判決をして刑を執行した事件の問題となる部分が後世に再び芽吹くことがないように完全に根絶やしにしてその痕跡さえも残すことなく処理できた蔡温という人物の実力には驚くしかないが、大陸支那の中華思想による異形の行為であると理解すれば、それもそう驚くほどでもなく日常的な支那人のやり方であったと納得してしまう。 異形の工作をなりふり構わずにそうするしか王国の存続の手段を見出せなかった蔡温の時代の蔡温を含めた琉球王国の役人たちが舐めたであろう辛酸がどの程度なのかを量ることなどはできないが、その労苦よりもそうするしかなかった当時の琉球人の心情には痛切に同情せずにいられない。
中国との冊封関係と薩摩支配の板ばさみ・・・その中で起きた前代未聞の大和政権への回帰運動、それをなりふり構わずに阻止して隠蔽した焚書坑儒の支那人志向の覇権主義中華思想による弾圧迫害。
私はこの「落書事件」の真相をこう捉えた。
だからこの実行首謀犯朝敏に関する資料はわずかな文芸作品のみという怪奇な現象になっているのだと考察できる。 本来であればこのような大事件の真相は永遠に記録として残り、犯罪の程度とその罪状に科した刑罰の量刑、刑の執行に関する状況的な記述の公文書等の資料は必ず保存されているはずである。それがこの「お国の難題落書事件」に限って裁判や刑の執行に限らず事件の推移や事件の内容をすべて消滅させた根拠は類推すればするほど前述の「大和政権への回帰運動」であったろうと結び付けるしかなくなる。
日本の刑罰史上を遡ってもこれだけの大量な極刑履行事件は類を見ない。
藤原氏全盛の奈良平安時代のクーダター事件でさえ首謀者の一味皆殺しなどは無かった。 わずか首謀の要人2,3人が斬首されて結着するのがノーマルなのだが・・・。
この事件では罪状が「落書による騒乱罪」であることを明示していながらも15名の大量極刑。刑の執行方法も極めて残忍な多勢の刑吏(朝敏の場合には16名以上であったらしい・・・。)が木のささくれ立ったやり状の棒で突き上げては抜き、また突き上げては抜きと絶命するまで数時間かけて苦悶をあたえて執行したようである。
これは事件を起こした犯人に苦悶を与えるための刑ではなく、この刑の執行によって類似の思想犯への見せしめとするための刑の執行である。残虐性を見せ付けてこのような事件の再発防止とこの事件の隠蔽を容易にするためにより大勢を見せしめにして恐怖政治を引く必要が蔡温にはあったのだ。そこまで徹底した計算があったからこそ当時、庶民に人気があったであろう文人朝敏の残虐な処刑をした蔡温が後世にまで大偉人として琉球の誉れとまで言われてきたのであろう。
琉球を愛して命を捧げた朝敏、琉球王国の冊封存亡に死力をかけて臨んだ蔡温。
どちらも正義でどちらも立派だとしか他に思いようがない。
朝敏はこんな刑の執行にも気力を消滅させることも無く刑に耐え抜いていたようで、これを看かねた朝敏の弟が自ら申し出て一突きで落命させ冥途へ旅立たせたという逸話がある。この逸話は真意がどうであろうとそれほど朝敏は民衆に愛され民衆が朝敏の死を望んでいなかったことが根底にあったからこのような逸話が生まれたような気がする。実際のところ刑場の中に身内が入ることなどは絶対に不可能なはずだ。だが、あえてこの話が言い伝えとして残ってきたことを考えると刑吏の大勢の人間たちも誰一人として朝敏に止めを刺すことなど出来なかったのだと私にはそう思うしかない。
琉球の民衆のすべてが朝敏を愛してやまなかった。
これほどこの革命家朝敏一派への憎悪と怨みが感じられる処刑が執行されたということは逆に考察すれば蔡温にとっては朝敏思想が一大恐怖の要因であった証である。だからこそ根こそぎに消し去ってしまうしかなかったのであろう。
この事件の真相を認識し闇に放り込まれた不透明な部分を正しく理解し解明しない限りこの事件はただの「落書き事件」として世の中に定着し闇に葬り去られたままとなろう。
乱れ髪さばく 世の中のさばき 引きがそこなたら 垢もぬがぬ
みだれがみさばく よのなかのさばき ひきがそこなたら あかもぬがぬ「間違いを糺すやり方にこそ間違いがある、だから素直にはなれぬっ!」・・・と朝敏は最後の最後まで自分を曲げずに蔡温を見据えて世を去った。 その時の情景は朝敏という鳳がさながら壮大な宇宙を翔けめぐる雄姿を誇示するかのように雅で厳かな気品を秘めた気迫で人間の尊厳である命を代償に贖わせて民への恐怖の見せしめとして政治を支配しようとする姑息な傀儡者蔡温を見くだし見さげて蔑視していたのであろうと感じ取るに十分すぎるほどのメッセージが朝敏の随筆貧家記に詠み連ねて綴られている。
それほどに朝敏のこの闘争にかける情熱の高まりは鬼気としたもであったことをもまた貧家記の四十首に及ぶ和歌の一句一字の語彙の言葉の節々から詠み解くことができる。
琉球王国の歴史上に燦然と輝きを放ってその偉大な功績を誇示し先達としての地位と名声を恣意し民衆を従恣させていた蔡温ほどの人物に闘い挑んで敗れて志半ばで潰えて天逝した朝敏だが、果たして真実はどちらが勝者であったかと問答することもなく、平敷屋朝敏こそ蔡温を遥かに凌ぐ日本史に燦然と輝く偉大な足跡を刻んだ琉球史上稀に見る平等博愛主義の天才革命家であり、未来永劫にわたり沖縄の人々はもとより日本人の鑑としてその心に刻まれ崇められる価値のある崇高な精神性を醸した神格者であったことを誰もが認め次代へと継承すべき時を迎えていると感じてならない。
東屋敷平仁 解説
東屋敷平仁 皇紀二六七七年卯月十九日改訂追記
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