幻想琉球の写真家東屋敷平仁が半世紀の時を翔けて歴史難題に挑む。悠久の歴史の中で闇に葬られた琉球王国の大陸手法による政治弾圧事件を推理し、確かな時代考証の真実史として十八世紀初頭に勃発した幕藩体制帰属運動で味方に引き入れようと図った薩摩に惨い裏切り行為を受けて計画が発覚、時の三司官蔡温によって惨虐処刑された政治犯・平敷屋友寄組を現代感覚で解説する。

Heijin Agariyashiki Discription [Prologue- No.1 Jisei no ku.]
平敷屋(へしきや)朝敏(ちょうびん)貧家記(ひんかきこう)序章(じょしょう)   辞世(じせい)の句
考察改訂版Apr.18'77i.p


(みだ)(がみ)さばく ()(なか)のさばき (ひき)きがそこなたら (あか)もぬがぬ  朝敏辞世の句(ちょうびんじせいのく)
みだれがみさばく よのなかのさばき ひきがそこなたら あかもぬがぬ
 組踊り手水の縁( てみずのえん . ハンザマヤー)で知られる琉球王国の稀代の天才文人革命家・平敷屋朝敏は、尚敬王の治世に三司官蔡温によって反体制派への焚書坑儒の弾劾訴追を受けて抹殺され無念の辞世を遺し、安謝の珊瑚の白砂の刑場で磔八つ裂きの極刑に処せられて天逝した。


 三十五歳の若さでこの世を去った朝敏に当時の民衆の誰もがその惨い仕打ちに涙したが独裁的な蔡温に反発する勢力は一掃されつくし、巷の世相には朝敏に関する話題は暗黙的タブーとなってしまった。事件の真相・原因・因果の全てが蔡温の命令でもみ消され後世はこの事件史の真相を究明する手がかりとなる全ての資料を奪われてしまった。  これだけ稀で優れた天才和文学者がその存在性のすべてを唯一数少ない文学作品にだけにしか見ることができないほど落書事件に関連した朝敏の情報を限りなく消滅し尽くしていることに驚かずにはいられない。何故こそうなったのか何ゆえに歴史を抹殺し捏造歪曲しなければならなかったのかを約半世紀にならんとするほどの年月を考え続けている。 事件の事細かな内容に関しては現代に伝わる公的な資料が皆無なので文献的な検証は不可能であり、あくまでも推理をつなぎ合せて考察することしかできないのだが、ここまでみごとに事件の全容を闇に葬ったと言う事実の事象を推考するだけでもおよそ日本の歴史上にはなかった大陸的権力弾圧の惨虐非道な様相がうかがい知れる。


 この落書事件の顛末こそが大量処刑による恐怖政治で不都合な体制批判や思想者集団を弾圧し傀儡的に琉球王国の執権の中枢を牛耳っていた三司官筆頭蔡温の強大な権力を象徴する証であり蔡温がことのほか朝敏一派の行動や思想が琉球王国と大陸の冊封関係に重大な亀裂を与える大反逆罪と捉えた証左でもあろう。
 私がこの事件の存在を知った最初の時期には落書事件の結末が中国からの渡来移民としての蔡温が大和文化への憧憬を捨てきれない琉球民への反感による私怨が招いた惨劇だと感じたものであった。大陸から渡来して来て代々、琉球王国の執権に関与しほぼ摂政政治的な権力構造の中枢を世襲的に継承しつつあった蔡家が琉球王国を掌握し続けるためには永続的に琉球国民が日本文化からの乖離脱却を図ることが必要だと考えていてその前途を多難にする平敷屋友寄組の日本帰属思想は三司官蔡温にとっては死刑宣告に等しい抗議行動であったことだろうと受け取っていた。  おしなべて考えをまとめると14世紀末に福建省から渡来して来た客家集団の久米三十六姓が蔡温の父蔡鐸の時代から王国への執政に台頭し蔡温が異例の三司官筆頭まで上り詰めていることに端を発しての私怨説のの見解の源であったが、時間を経るうちに客家集団そのものの中国での歴史的な動向や立場などをより詳しく知れば知るほどに、この落書事件の結末が私怨によるものではなく国家的な永続的な支配思想の暴力的謀略の可能性が浮上してきて、さらに現代の中国共産党によるチベットウィグルなどへの小国家や民族への異常な弾圧をネット動画などで目の当たりにし客家の中華思想による世界覇権の野望のそのものの顕著な版図の一端に明らかに琉球国も含まれていることを認知するに至ったのであった。 そのつぶさな情報の蓄積によって単純な世間知らずによる私怨説は粉塵の如くに吹き飛んで以来、朝敏ら平敷屋友寄組の革命的行動の記録の隠滅が個人的な思惑を離れた異形の大陸の国家的侵略思想と計略による謀略的暴挙であると思い知らされてその事実に戦慄し消された真実を手繰り寄せて見たくなったのである。 誰しもが朝敏と蔡温の両者の生い立ちから琉球王家の直系である朝敏の和文学への造詣の深さによる時代背景的な民衆の要求を受けて世間から注目を浴びている朝敏に対して支那人家系である蔡温が望みようのない民衆からの支持度合いに妬み嫉みが高じて事あるごとに朝敏と意見衝突していたことなどによる反目的な処断だと単純な理屈で考えてしまうであろうが、だが長い年月にわたって考え続けていると事件の複雑な事情の一端が見え始めて、その事が端緒となり絡みついた糸玉を解すように次々と事件の外郭を得るに至り今日、遂に全容的な核心へと辿り着いたと確信を持って事件の全貌を解明してみた。 あくまでも、事件の核心的な部分は事実としては全く知ることが出来ないので、「お国の難題落書事件」の扱いがその罪状に比して執り行われた同程度の日本の刑罰と比しても歴史上でも類を見ない残酷無比な処刑が実行された事実から類推的に推理を積み重ね、朝敏らの処刑後には一切の文物の記録が不可能だった中で口伝による朝敏の辞世の句や数少ない琉歌などの朝敏遺稿の研究に加えて琉球士族に伝統的に継承されていた家譜の記述などを参考にして考察を進めた。勿論、家譜への落書事件に関連する記述は廃藩置県以後の明治時代以降からの記述であると考えるのが妥当であろうから、出所が同一の可能性も否定はできないし少ない記述の全記述の真偽にも問題は隠されている。
 重大な判決をして刑を執行した事件の問題となる部分が後世に再び芽吹くことがないように完全に根絶やしにしてその痕跡さえも残すことなく処理できた蔡温という人物の実力には驚くしかないが、大陸支那の中華思想による異形の行為であると理解すれば、それもそう驚くほどでもなく日常的な支那人のやり方であったと納得してしまう。 異形の工作をなりふり構わずにそうするしか王国の存続の手段を見出せなかった蔡温の時代の蔡温を含めた琉球王国の役人たちが舐めたであろう辛酸がどの程度なのかを量ることなどはできないが、その労苦よりもそうするしかなかった当時の琉球人の心情には痛切に同情せずにいられない。
 中国との冊封関係と薩摩支配の板ばさみ・・・その中で起きた前代未聞の大和政権への回帰運動、それをなりふり構わずに阻止して隠蔽した焚書坑儒の支那人志向の覇権主義中華思想による弾圧迫害。
 私はこの「落書事件」の真相をこう捉えた。
だからこの実行首謀犯朝敏に関する資料はわずかな文芸作品のみという怪奇な現象になっているのだと考察できる。
 本来であればこのような大事件の真相は永遠に記録として残り、犯罪の程度とその罪状に科した刑罰の量刑、刑の執行に関する状況的な記述の公文書等の資料は必ず保存されているはずである。それがこの「お国の難題落書事件」に限って裁判や刑の執行に限らず事件の推移や事件の内容をすべて消滅させた根拠は類推すればするほど前述の「大和政権への回帰運動」であったろうと結び付けるしかなくなる。
 日本の刑罰史上を遡ってもこれだけの大量な極刑履行事件は類を見ない。
藤原氏全盛の奈良平安時代のクーダター事件でさえ首謀者の一味皆殺しなどは無かった。 わずか首謀の要人2,3人が斬首されて結着するのがノーマルなのだが・・・。
 この事件では罪状が「落書による騒乱罪」であることを明示していながらも15名の大量極刑。刑の執行方法も極めて残忍な多勢の刑吏(朝敏の場合には16名以上であったらしい・・・。)が木のささくれ立ったやり状の棒で突き上げては抜き、また突き上げては抜きと絶命するまで数時間かけて苦悶をあたえて執行したようである。
 これは事件を起こした犯人に苦悶を与えるための刑ではなく、この刑の執行によって類似の思想犯への見せしめとするための刑の執行である。残虐性を見せ付けてこのような事件の再発防止とこの事件の隠蔽を容易にするためにより大勢を見せしめにして恐怖政治を引く必要が蔡温にはあったのだ。そこまで徹底した計算があったからこそ当時、庶民に人気があったであろう文人朝敏の残虐な処刑をした蔡温が後世にまで大偉人として琉球の誉れとまで言われてきたのであろう。
 琉球を愛して命を捧げた朝敏、琉球王国の冊封存亡に死力をかけて臨んだ蔡温。
どちらも正義でどちらも立派だとしか他に思いようがない。
 朝敏はこんな刑の執行にも気力を消滅させることも無く刑に耐え抜いていたようで、これを看かねた朝敏の弟が自ら申し出て一突きで落命させ冥途へ旅立たせたという逸話がある。この逸話は真意がどうであろうとそれほど朝敏は民衆に愛され民衆が朝敏の死を望んでいなかったことが根底にあったからこのような逸話が生まれたような気がする。実際のところ刑場の中に身内が入ることなどは絶対に不可能なはずだ。だが、あえてこの話が言い伝えとして残ってきたことを考えると刑吏の大勢の人間たちも誰一人として朝敏に止めを刺すことなど出来なかったのだと私にはそう思うしかない。
 琉球の民衆のすべてが朝敏を愛してやまなかった。
 これほどこの革命家朝敏一派への憎悪と怨みが感じられる処刑が執行されたということは逆に考察すれば蔡温にとっては朝敏思想が一大恐怖の要因であった証である。だからこそ根こそぎに消し去ってしまうしかなかったのであろう。
 この事件の真相を認識し闇に放り込まれた不透明な部分を正しく理解し解明しない限りこの事件はただの「落書き事件」として世の中に定着し闇に葬り去られたままとなろう。  

乱れ髪さばく 世の中のさばき 引きがそこなたら 垢もぬがぬ

みだれがみさばく よのなかのさばき ひきがそこなたら あかもぬがぬ
この辞世の句には朝敏の遺念(いねん)の切ない思いだけではなく人権法のない国家への辛らつな体制批判が込められている。



 
 「間違いを糺すやり方にこそ間違いがある、だから素直にはなれぬっ!」・・・と朝敏は最後の最後まで自分を曲げずに蔡温を見据えて世を去った。 その時の情景は朝敏という鳳がさながら壮大な宇宙を翔けめぐる雄姿を誇示するかのように雅で厳かな気品を秘めた気迫で人間の尊厳である命を代償に贖わせて民への恐怖の見せしめとして政治を支配しようとする姑息な傀儡者蔡温を見くだし見さげて蔑視していたのであろうと感じ取るに十分すぎるほどのメッセージが朝敏の随筆貧家記に詠み連ねて綴られている。
 それほどに朝敏のこの闘争にかける情熱の高まりは鬼気としたもであったことをもまた貧家記の四十首に及ぶ和歌の一句一字の語彙の言葉の節々から詠み解くことができる。

 琉球王国の歴史上に燦然と輝きを放ってその偉大な功績を誇示し先達としての地位と名声を恣意し民衆を従恣させていた蔡温ほどの人物に闘い挑んで敗れて志半ばで潰えて天逝した朝敏だが、果たして真実はどちらが勝者であったかと問答することもなく、平敷屋朝敏こそ蔡温を遥かに凌ぐ日本史に燦然と輝く偉大な足跡を刻んだ琉球史上稀に見る平等博愛主義の天才革命家であり、未来永劫にわたり沖縄の人々はもとより日本人の鑑としてその心に刻まれ崇められる価値のある崇高な精神性を醸した神格者であったことを誰もが認め次代へと継承すべき時を迎えていると感じてならない。 東屋敷平仁 解説
東屋敷平仁 皇紀二六七七年卯月十九日改訂追記


Heijin Agariyashiki Discription [HINKAKIKOU - JOSYO 2] 解説 平敷屋(へしきや)朝敏(ちょうびん) 貧家記(ひんかき) 序章二節改訂版Apr.19'77i.p

三年の長きわたって牢獄生活を続け死ぬ間際の辞世の句にまでも辛辣な体制への批判を塗こめて抵抗運動を諦めなかった琉球の国士・平敷屋朝敏という人物は一体どのような人間であっただろうか。 思うに安政の大獄で伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処された吉田松陰(享年30満29歳没)や自衛官よ立て!と当時の自衛隊市谷駐屯地で割腹自決した三島由紀夫氏などと極めて似通った志士であったろう事は推測ができる。 だが、琉球という温和な人間社会で体制が下した処断としては想像を絶する惨い刑罰で死地へ追いやられねばならなかったほど朝敏は体制の権力を揺るがす男として巨大な存在であったことは如実にその歴史が証明するであろう。 乱れ髪さばく世の中のさばき 引きがそこなたら垢もぬがぬ 大和文学一辺倒の大和かぶれの大和文学者が得意な大和言葉による五七五七七調の辞世の句ではなく八八八六調の琉歌による辞世の句を遺したことはおよそ想像できかねることである。 人間は死に際の辞世を詠む場合はもっとも自分が得意な言葉を使って現世での遺恨や主義主張を後世へ伝えたいと考えるのが当たり前であろうし幼少の頃より大和文学一辺倒であった朝敏であれば大和の言葉で辞世の句を遺したい思うのが至極当たり前ではと考えられるはずだ。 その辞世を朝敏は何故、さんぱちろく(八八八六)の琉歌で詠み遺したのか。真っ先にこの疑問によって朝敏の閉ざされた史実への謎があるのだと考えが行きついた。 朝敏は辞世の句を琉歌で綴り遺すことで後世へのメッセージを告げ、圧政からの世替わりを信じて過ぎ去りし時の流れがいつか真実の解明に行きつくことに期待したかったのであろうと私は考察した。これは朝敏の祖国琉球への思い入れの深さであり、またひとえに己自身が琉球人であることを強く意識している気持ちを伝えたいものであったと捉えられるが、それだけではなく敢えて琉球の言葉を使用したことで、朝敏は大和と琉球の関係に不自然な思惑が働いていることを暗に30韻の句に込めて遺していたと読み解いてみた。 孤高の人平敷屋朝敏が辞世の句でこの時代や後世の琉球の民衆へ語り掛けたかったメッセージとは何か。 事件当時の民衆は権力の弾圧に抗いきれずに血涙を呑んで朝敏の処刑を見守るしかなくその後も朝敏のことはおろか後世が「落書事件」としか記録されていない「お国の難題」による大革命行動の片鱗も語り継ぐことさえ禁止され一切合切が闇へと葬り去られこの世の史実から抹消されてしまった。 琉球王国の権力を束ね牛耳る三司官制度による時の大権力者は蔡温であり、蔡温は歴史記録では名相の誉れを一身に浴びて民衆が支持し敬服したと記録されている。しかし、その実この事件に関してはまさに地獄の閻魔大王のような血も涙もない凡そ日本の刑罰史上にはありえなかったほどの残虐な大陸的刑罰を科して「落書事件」の関係政治犯の一味を悉く処刑している。その処刑は人間の仕業とは思えるものではなく、大衆への見せしめとしての恐怖を震撼させた刑罰の執行に拠っている。 事件の核心を摺りかえられて後世には単なる逆賊集団をたっぴらかした(※1)だけのような不透明な事件として記録のすべてを改ざんし歴史の記録を書き換えた。 それほどに当時の三司官蔡温の権力は絶大で誰もが異議を唱え反論の声を挙げることが不可能な時代であったのだろう。この事件を契機に蔡温は琉球王国の日本とのつながりの証明となる公文書のすべてを焼き捨て、新たな虚構捏造の史実を漢文のみで記録することに着手し実行した。まさしく、大陸支那人の民心掌握の虚構のの歴史の刷り込みがこの時代に行われているのだ。 そのような強大な権力行使による弾圧、処刑の瞬間までも抵抗し確固として信念貫き信条をを変えることなく体制を糾弾し批判の果てに抹殺された朝敏と言う人間像を私は延々と半世紀に渡って見つめ考え続けてきた。そのような長い年月の中で朝敏への募る思いは大きな波のうねりのように盛り上がり岩を穿つ怒涛のような憤りを何度も何度も叩きつける如くに胸に湧き上がらせている。そうするうちに何かしら当時の事件の重大な部分が少しづつベールをはがし一つの確かな真実として私の脳裏に焼き付きその当時の闇に葬られた真相が甦がえるように独り歩きしだしている。これはもはや想像の域を脱して完璧な時代考証と歴史の類推事犯からの推理と推考の積み上げによる真実の解明だと自負するに至った。 辞世の句を朝敏は万葉歌でも詠んだことだろうと推察できる。 歴史の記録には何もなくとも朝敏を愛し朝敏を長きに亘見つめ朝敏に成り代わって事件を再考察している私には朝敏の心の在り様や模様が遺された遺稿から如実に伝搬してくる。まさに朝敏の魂が憑依したように当時の有様が走馬灯のように脳裏を駆け巡り浮かび上がってくる。 乱れ髪さばく世の中のさばき 引きがそこなたら垢もぬがぬ この琉歌の八八八六調を和歌五七五七七調に直すと・・・ 乱れ髪 さばく世の中の さばく櫛 かけてさばけば 垢もおちぬに  東屋敷平仁和歌(※2) 和歌の上手い下手は問題外として朝敏はこのような気持ちを伝え遺したかったことであろうと読み替えてみればまさしく髪を梳く櫛が悪いと言及していることが明瞭になる。この場合の櫛とはまさに琉球王国の法であり、法を執行する三司官そのものである。 ”裁く法に正義がなければ真実はない”・・・と書き遺して逝った琉球の国士朝敏に勝利したと確信した蔡温は事件を闇に埋め覆い隠して完全抹殺したと考えて処刑した記録だけを遺す事を許可したのであろう。 だから辞世の句がこれほどの体制批判が籠められていても際温は気づくことなくこの句の抹殺はしなかったのだと思うが、朝敏の意思が魂がこの句を抹殺することを頑なに拒んだだのだと朝敏贔屓の私は思いたい。 この句に出会い私は「落書事件」の事件の全容の一端を掴んだ。そして今、朝敏の残した作品の中から当時の朝敏の思想を紐解きそれを徐々につなぎ合せている。 その過程で心にもたげたことのひとつに、蔡温も三年と言う長い歳月をかけて朝敏の心変わりを願っていたのではないかと考えてもいる。蔡温も実は天才朝敏が好きだったのではないかとも考えられなくもない。 だが、真実は非情かもしれない三年と言う長い牢獄生活はただただ大陸との行き来に擁した年月だったのだろう。宗主国への事件の報告とその判決の命令書の到着に時が必要だっただけなのだ。だから、日本の刑吏史上に類を見ない惨虐で非道な大量処刑がミセシメとして実行された。日本では考えようがない惨忍で悲惨な刑罰の方法で民衆の目前でじわじわと苦しめながら惨殺した。 それらの僅かな断片的な史実が私の推理力をどんどんと空想の世界から中世の現実の世界へとタイムスリップさせて真実を語りかけてくる。 時代が傑出した稀代の天才朝敏の人間的な価値を蔡温ほどの大人物が毛嫌いするはずはないとしか私には思えないが民族の観念的な相違は相容れないものがあるのかもとも思う。 当時の琉球文化の文学の壇上を席巻し喝采を浴びていた時代の寵児平敷屋朝敏。 してみれば琉球の大衆だけでなく権力を行使した体制の中核の人間たちも誰一人として彼を抹殺したくはなかったのであろうと思いたい。 朝敏が処刑されて一、二年の間に組み踊りの創始者玉城朝薫が、朝敏の師・名護親方程順則が跡を追うように冥途へ旅立たれている。 このふたりの偉人はどちらも朝敏とはゆかりがありつながりが深い。その二人が相次ぐ死去していた、偶然だと思えばそうかも知れないが私にはこの二人の偉人は天才朝敏の旅だった哀しみに打ちひしがれて朝敏への哀切のストレスが死期を早めたのだと思い当たるにたる。 朝敏と言う男、時代の荒波をかいくぐる事は出来なかったが全琉球人に愛されて人生を全うし、後世の民衆の心の支えとなって民衆のエネルギーの源に為り得たのではないか。 そう考察するとこの男こそ素晴らしい人生を行き抜いたのだと感じて泪が止まらなくなる。 沖縄の方々が彼の生きざまを世に知らしめることを願ってやまない。 平敷屋朝敏考 東屋敷平仁(あがりやしきへいじん)著

東屋敷平仁 解説

東屋敷平仁 記述

解説平敷屋(へしきや)朝敏(ちょうびん) 貧家記(ひんかき)
Heijin Agariyashiki Discription [HINKAKIKOU - JOSHO 3] 解説 平敷屋(へしきや)朝敏(ちょうびん) 貧家記(ひんかき)序章三節改訂版Apr.13'77i.p



 
浜崎や 群れいて遊ぶ 白鷺の 色もひとつに 清き真砂地第五首
はまさきや むれいてあそぶ しらさぎの いろもひとつに きよきますなじ

 師走のあわただしさの中での領地への蟄居、環境の激変のなかで正月を迎えた朝敏はまずは国王様への愛着を言葉にしてしたためている。 お正月の参賀の様子を想像して立派な殿舎での生活も粗末な佇まいの我が家も棲まうには同じこと、何ら生きることに不都合などありはしないと自らの境涯に毅然とした態度を見せて苦難への先行きに自ら案じることなくその始まりを手放しで喜んで門出を祝っているかのような随筆貧家記の書出しである。
 正月の三日にもその記述は続き、参賀の寺参りの国王行列の先頭の旗竿に結わえられた赤い布切れのハタメク様にまで事細かに描写している。 七日正月を過ぎ、ご先祖へのの弔いの十五日正月を迎えるに至っても都への望郷の念を綴り、はた目には恋しい都への思いが極まりつつあって早くもホームシックに陥っているのではとの些か不甲斐ない様子が字面から伝わって来るように感じられなくもない。少なからず同情して哀惜の念を感じてその情けない面持ちを共有してしまいそうだが、朝敏にとってはこれも確信犯的な隠蔽工作であろうかと考えてみるとこの貧家記が王府の役人の検閲の目をすり抜けてしっかりと文学作品として後世へ遺って自身の思想の一部分でも伝わって理解してもらいたいとの願いを込めて、それを達成するにはどう為すべきかをとことん考え尽くしながら意図的に策を弄することで思想的な文物ではないと思わせることを目的にして書き始めたのだとその作為的な陰陽の演出を隠蔽工作の技巧なのだと前提として捉えて読み下してみれば、お正月らしさの華やかさの陰で身を潜めるかのような自身の姿を浮き上がらせることなどは逆効果となるので必然的に王家礼賛を前面に出しながら共に楽しきお正月を過ごしている風な装い見せつつ、この随筆には徒然の日記的な意味合い以外の何ものも意図してはいないことを殊更に冒頭の書出し段階から変化させることなく自然に思い切り行間を割いて体裁を繕うことに腐心したような工夫が見受けられる。
 朝敏は平敷屋へ蟄居となったこの時点から蔡温が降す落書事件への処断が最悪の事態になるであろうことを予期しその結末にタジログことも怖気づくこともなく果敢に立ち向かうだけだと信念を強固にして命を賭しても厭わない覚悟を決断していたのだろうと断定することができる。 だがしかし、反面、朝敏はこの時点で平敷屋友寄組の全員が極刑を免れずに悉く死罪となり家族には流罪の沙汰が降されることになるなどとは夢想だにも及ばずにいたのであろうとも思えるような記述にもぶつかったりもする。
 自らの命を犠牲することで仲間たちは救えるであろうと安直に考えていたのかそれとも仲間たちにはそのような大罪を科されるいわれなどないことを承知なのだから、共に処刑されるはずもないと信じ切っていたのではないだろうかとも考えたりもする。朝敏にとってはどのような断罪を受けようとも元々命を賭け体を張って人生を投げ出した闘争劇であり端緒ッから最悪の結果は見越しての行動であったのだから、たとえ火あぶりの刑でも納得して刑に服するのだろうが、こと仲間の命の事になると重大な責任感を感じずにはおれなかったことなどは容易に推察のつくことでもある。


 そのような予断の許さない緊迫状態に置かれているなかでも朝敏はあくまでも仲間一同の道連れ処刑などの残虐な処断を王府が決定するはずもなく、蔡温が望むべくもないと楽観的に考えていたかもしれないが、それ以上にそのような最悪の結果は行動の初期からの想定外で脳裏の隅っこにさえも浮かばない出来事であって、そんな悍ましい下劣な裁定が降されることになるなどとの予想さえ出来かねるものであったのかもしれないとさえ思えてしまうほどの貧家記でのお正月歳時記の記述である。
  如何に支那人蔡温と言えども先祖代々3百年ほどを琉球人として生き続けているのだから、思慮の範疇が朝敏の想いもよらない法外な決定を持ち出すことなどは論外だったと捉えることも出来る。
 久米三六姓らの久米村の支那人は1300年代末から朝敏らのこの時代まで300年間ほどに亘って次々と定期的に渡来人を追加しているもののその総数自体は大幅な増加はなくまた、ほとんどの家系が直系断絶によって琉球人の養子によって家譜の継承を図っていたことからも考えて蔡温の家系もどこかで支那人血脈から外れていたことも考えられないことでもない。男系系統で家譜継承するのは至難の業であり、ちょうどこの当時の三司官であった名護親方程順則も琉球人の養子であったことなどは史実に明確にされている。
 そんな時代的な背景も考察の材料として貧家記解読を進めて見たのだが、朝敏は王府の落書事件の裁定結果が最終的には多勢に無勢で琉球人の思惑で平敷屋友寄組に分があって回避できる可能性が高確率であることを見越していたのかもしれない。

 しかし、蔡温は別格であった。どこまでも冊封主義を貫き琉球王国を大陸の属国として扱い、反逆行為には大陸の刑罰を適用するに至ってはほとんど大陸の思惑で動く総督のよう存在感を示していたと捉えてもあながち的外れな見解ではないだろう。そうでなければこの当時でさえも日本の刑罰史上にはない大量の公開処刑など考え付くものではない。大陸では数千年もの悠久の時代の流れの中で恒常的ともいえるほどに焚書坑儒の大虐殺が王朝の交代が有るなしにかかわらずに繰り返し繰り返し行われて続けている。その方法も極端な例などでは国ごと民族ごとことごとく全滅させて敵対勢力を一掃する極悪非道が当然のようにまかり通って実践されて来ている人種であり国家であることを忘れてはならない。
 蔡温は明らかにこの大陸の刑罰例を倣って処断したと考えるか、大陸に事件報告した結果、大陸から思いもよらぬ焚書坑儒の徹底的な反抗分子の排斥を命令されて止む無くの決断であったと考えるかは推考を徹底的に深めて謎を解き明かしていくことで辿り着ける決着点であることは断言できる。
 しかし、朝敏ら亡き後の流罪にした家族の処遇などの回復措置の実施が行われていないことなどを推察すれば蔡温が琉球王国をこの事件後から完璧な傀儡政権国家として牛耳ることに成功していたと認めるしかない事実がそこにあることを排除してはならない。
 何故かこの頃から300年間継続されていた大陸からの久米村への渡来人がパッタリと途絶えている。このような奇妙な事実関係の変遷をもこの時代を境にしての因果関係となるのかをさらにより踏み込んだ事実関係の検証なども必要なので、これらの奇妙で塊怪な符号が点となり線となって難解なパズルを組み立てていくヒントになり得るものだ。

  ともあれ朝敏は、田舎の辛さを記すのは、事一方的に田舎の窮状に言及すれば王府の取り締まり関係者から体制批判の文書として抹殺されることを危惧しての国王への敬愛思慕の記述による書き出しはその後の記述を擁護して見逃させるための裏工作的な作為であると断言できる。
 このことが朝敏の本意であるならばこの貧家記が随筆としての価値よりも革命家の闘争の記録であると捉えるべきであろう。その価値に気づかずに表面的な字面に思いを寄せていたのでは、真の朝敏像を読み解くことは不可能だ。
 題字に貧家と記して貧しいさまを訴えるのはそのままに時の体制批判が込められることになっている、あえてその体制批判を隠蔽するために書き出しに国王への敬愛と思慕を込めて書き連ね、後の重たい精神重圧と労苦貧困の田舎生活の記録的記述に擁護させてこの書物の抹殺を防いでいると考察することが朝敏の思想を受け継ぐことでもある。 唯一、文学的な作品を除いて遺された記録書としての価値を見出すには文章に隠された一語一語一句一句に朝敏の切なる体制への反抗精神を読み解いて後世へ受け継いで伝えるべきであろうと考えている。 皇紀2677年弥生1日 東屋敷平仁 著
東屋敷平仁 解説
東屋敷平仁 記述

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