Heijin Agariyashiki Discription [HINKAKIKOU - JOSYO 2] 解説 平敷屋(へしきや)朝敏(ちょうびん) 貧家記(ひんかき) 序章二節改訂版Apr.19'77i.p

 三年註*1の長きわたって牢獄生活を続け死ぬ間際の辞世の句にまでも辛辣な体制への批判を塗こめて抵抗運動を諦めなかった琉球の国士・平敷屋朝敏という人物は一体どのような人間であっただろうか。

思うに安政の大獄で伝馬町牢屋敷にて斬首刑に処された吉田松陰(享年30満29歳没)や自衛官よ立て!と当時の自衛隊市谷駐屯地で割腹自決した三島由紀夫氏などと極めて似通った志士であったろう事は推測ができる。

だが、琉球という温和な人間社会で体制が下した処断としては想像を絶する惨い刑罰で死地へ追いやられねばならなかったほど朝敏は体制の権力を揺るがす男として巨大な存在であったことは如実にその歴史が証明するであろう。

乱れ髪さばく世の中のさばき

引きがそこなたら垢もぬがぬ

大和文学一辺倒の大和かぶれの大和文学者が得意な大和言葉による五七五七七調の辞世の句ではなく八八八六調の琉歌による辞世の句を遺したことはおよそ想像できかねることである。

人間は死に際の辞世を詠む場合はもっとも自分が得意な言葉を使って現世での遺恨や主義主張を後世へ伝えたいと考えるのが当たり前であろうし幼少の頃より大和文学一辺倒であった朝敏であれば大和の言葉で辞世の句を遺したい思うのが至極当たり前ではと考えられるはずだ。
その辞世を朝敏は何故、さんぱちろく(八八八六)の琉歌で詠み遺したのか。真っ先にこの疑問によって朝敏の閉ざされた史実への謎があるのだと考えが行きついた。

朝敏は辞世の句を琉歌で綴り遺すことで後世へのメッセージを告げ、圧政からの世替わりを信じて過ぎ去りし時の流れがいつか真実の解明に行きつくことに期待したかったのであろうと私は考察した。これは朝敏の祖国琉球への思い入れの深さであり、またひとえに己自身が琉球人であることを強く意識している気持ちを伝えたいものであったと捉えられるが、それだけではなく敢えて琉球の言葉を使用したことで、朝敏は大和と琉球の関係に不自然な思惑が働いていることを暗に30韻の句に込めて遺していたと読み解いてみた。

孤高の人平敷屋朝敏が辞世の句でこの時代や後世の琉球の民衆へ語り掛けたかったメッセージとは何か。
事件当時の民衆は権力の弾圧に抗いきれずに血涙を呑んで朝敏の処刑を見守るしかなくその後も朝敏のことはおろか後世が「落書事件」としか記録されていない「お国の難題」による大革命行動の片鱗も語り継ぐことさえ禁止され一切合切が闇へと葬り去られこの世の史実から抹消されてしまった。

琉球王国の権力を束ね牛耳る三司官制度による時の大権力者は蔡温であり、蔡温は歴史記録では名相の誉れを一身に浴びて民衆が支持し敬服したと記録されている。しかし、その実この事件に関してはまさに地獄の閻魔大王のような血も涙もない凡そ日本の刑罰史上にはありえなかったほどの残虐な大陸的刑罰を科して「落書事件」の関係政治犯の一味を悉く処刑している。その処刑は人間の仕業とは思えるものではなく、大衆への見せしめとしての恐怖を震撼させた刑罰の執行に拠っている。 事件の核心を摺りかえられて後世には単なる逆賊集団をたっぴらかした(※1)だけのような不透明な事件として記録のすべてを改ざんし歴史の記録を書き換えた。

それほどに当時の三司官蔡温の権力は絶大で誰もが異議を唱え反論の声を挙げることが不可能な時代であったのだろう。この事件を契機に蔡温は琉球王国の日本とのつながりの証明となる公文書のすべてを焼き捨て、新たな虚構捏造の史実を漢文のみで記録することに着手し実行した。まさしく、大陸支那人の民心掌握の虚構のの歴史の刷り込みがこの時代に行われているのだ。

そのような強大な権力行使による弾圧、処刑の瞬間までも抵抗し確固として信念貫き信条をを変えることなく体制を糾弾し批判の果てに抹殺された朝敏と言う人間像を私は延々と半世紀に渡って見つめ考え続けてきた。そのような長い年月の中で朝敏への募る思いは大きな波のうねりのように盛り上がり岩を穿つ怒涛のような憤りを何度も何度も叩きつける如くに胸に湧き上がらせている。そうするうちに何かしら当時の事件の重大な部分が少しづつベールをはがし一つの確かな真実として私の脳裏に焼き付きその当時の闇に葬られた真相が甦がえるように独り歩きしだしている。これはもはや想像の域を脱して完璧な時代考証と歴史の類推事犯からの推理と推考の積み上げによる真実の解明だと自負するに至った。

辞世の句を朝敏は万葉歌でも詠んだことだろうと推察できる。
歴史の記録には何もなくとも朝敏を愛し朝敏を長きに亘見つめ朝敏に成り代わって事件を再考察している私には朝敏の心の在り様や模様が遺された遺稿から如実に伝搬してくる。まさに朝敏の魂が憑依したように当時の有様が走馬灯のように脳裏を駆け巡り浮かび上がってくる。

乱れ髪さばく世の中のさばき

引きがそこなたら垢もぬがぬ

この琉歌の八八八六調を和歌五七五七七調に直すと・・・

乱れ髪 さばく世の中の さばく櫛

かけてさばけば 垢もおちぬに  東屋敷平仁和歌(※2)

和歌の上手い下手は問題外として朝敏はこのような気持ちを伝え遺したかったことであろうと読み替えてみればまさしく髪を梳く櫛が悪いと言及していることが明瞭になる。この場合の櫛とはまさに琉球王国の法であり、法を執行する三司官そのものである。

”裁く法に正義がなければ真実はない”・・・と書き遺して逝った琉球の国士朝敏に勝利したと確信した蔡温は事件を闇に埋め覆い隠して完全抹殺したと考えて処刑した記録だけを遺す事を許可したのであろう。

だから辞世の句がこれほどの体制批判が籠められていても際温は気づくことなくこの句の抹殺はしなかったのだと思うが、朝敏の意思が魂がこの句を抹殺することを頑なに拒んだだのだと朝敏贔屓の私は思いたい。

この句に出会い私は「落書事件」の事件の全容の一端を掴んだ。そして今、朝敏の残した作品の中から当時の朝敏の思想を紐解きそれを徐々につなぎ合せている。

その過程で心にもたげたことのひとつに、蔡温も三年註*1と言う長い歳月をかけて朝敏の心変わりを願っていたのではないかと考えてもいる。蔡温も実は天才朝敏が好きだったのではないかとも考えられなくもない。

だが、真実は非情かもしれない三年註*1と言う長い牢獄生活はただただ大陸との行き来に擁した年月だったのだろう。宗主国への事件の報告とその判決の命令書の到着に時が必要だっただけなのだ。だから、日本の刑吏史上に類を見ない惨虐で非道な大量処刑がミセシメとして実行された。日本では考えようがない惨忍で悲惨な刑罰の方法で民衆の目前でじわじわと苦しめながら惨殺した。

それらの僅かな断片的な史実が私の推理力をどんどんと空想の世界から中世の現実の世界へとタイムスリップさせて真実を語りかけてくる。

時代が傑出した稀代の天才朝敏の人間的な価値を蔡温ほどの大人物が毛嫌いするはずはないとしか私には思えないが民族の観念的な相違は相容れないものがあるのかもとも思う。
当時の琉球文化の文学の壇上を席巻し喝采を浴びていた時代の寵児平敷屋朝敏。

してみれば琉球の大衆だけでなく権力を行使した体制の中核の人間たちも誰一人として彼を抹殺したくはなかったのであろうと思いたい。

朝敏が処刑されて一、二年の間に組み踊りの創始者玉城朝薫が、朝敏の師・名護親方程順則が跡を追うように冥途へ旅立たれている。

このふたりの偉人はどちらも朝敏とはゆかりがありつながりが深い。その二人が相次ぐ死去していた、偶然だと思えばそうかも知れないが私にはこの二人の偉人は天才朝敏の旅だった哀しみに打ちひしがれて朝敏への哀切のストレスが死期を早めたのだと思い当たるにたる。

朝敏と言う男、時代の荒波をかいくぐる事は出来なかったが全琉球人に愛されて人生を全うし、後世の民衆の心の支えとなって民衆のエネルギーの源に為り得たのではないか。

そう考察するとこの男こそ素晴らしい人生を行き抜いたのだと感じて泪が止まらなくなる。

沖縄の方々が彼の生きざまを世に知らしめることを願ってやまない。

註*1

朝敏が牢獄生活を送ったのが三年と言われているのは通説であって確証のある年数ではない貧家記の記述と刑の執行の時期などを勘案すれば、大方1年~2年と見るべきだろうと感じている。秋に事件が発覚して年末には平敷屋へ蟄居を言い渡されているとしてその後に首里の牢へ閉じ込められたとして2年の年数には満たないのではないかと計算もできるが、平敷屋から首里へ戻って3年間は刑が執行されていない可能性も否定はできない。タキノーの造成完成期から3年間は生存していたと考えられるフシもあるので通説の3年の牢獄生活はあったと考えるべきなのか。だとすれば、この長い期間の刑執行猶予は大陸的ではないと思われるので、この猶予期間を誰が捻出したのかを考察して見たがやはり、朝敏の刑執行を阻止していたのは蔡温と対等に対峙できる程順則であったと見るべきだろう。また、程順則と玉城朝薫の両名が時を前後して朝敏の死後に後を追うように亡くなっていることにも疑念が持ち上がっている。 この件なども今では空想的に推理考察するしか検証する術はなく残念であるが、沖縄に今も現存する士族家譜のなかに僅かづつでもこの件を検証できる記述があることを願うばかりである。

東屋敷平仁 解説

東屋敷平仁 記述

解説平敷屋(へしきや)朝敏(ちょうびん) 貧家記(ひんかき)
Heijin Agariyashiki Discription [HINKAKIKOU - JOSHO 3] 解説 平敷屋(へしきや)朝敏(ちょうびん) 貧家記(ひんかき)序章三節改訂版Apr.13'77i.p



 
浜崎や 群れいて遊ぶ 白鷺の 色もひとつに 清き真砂地はまさきや むれいてあそぶ しらさぎの いろもひとつに きよきますなじ第五首

 師走のあわただしさの中での領地への蟄居、環境の激変のなかで正月を迎えた朝敏はまずは国王様への愛着を言葉にしてしたためている。 お正月の参賀の様子を想像して立派な殿舎での生活も粗末な佇まいの我が家も棲まうには同じこと、何ら生きることに不都合などありはしないと自らの境涯に毅然とした態度を見せて苦難への先行きに自ら案じることなくその始まりを手放しで喜んで門出を祝っているかのような随筆貧家記の書出しである。
 正月の三日にもその記述は続き、参賀の寺参りの国王行列の先頭の旗竿に結わえられた赤い布切れのハタメク様にまで事細かに描写している。 七日正月を過ぎ、ご先祖へのの弔いの十五日正月を迎えるに至っても都への望郷の念を綴り、はた目には恋しい都への思いが極まりつつあって早くもホームシックに陥っているのではとの些か不甲斐ない様子が字面から伝わって来るように感じられなくもない。少なからず同情して哀惜の念を感じてその情けない面持ちを共有してしまいそうだが、朝敏にとってはこれも確信犯的な隠蔽工作であろうかと考えてみるとこの貧家記が王府の役人の検閲の目をすり抜けてしっかりと文学作品として後世へ遺って自身の思想の一部分でも伝わって理解してもらいたいとの願いを込めて、それを達成するにはどう為すべきかをとことん考え尽くしながら意図的に策を弄することで思想的な文物ではないと思わせることを目的にして書き始めたのだとその作為的な陰陽の演出を隠蔽工作の技巧なのだと前提として捉えて読み下してみれば、お正月らしさの華やかさの陰で身を潜めるかのような自身の姿を浮き上がらせることなどは逆効果となるので必然的に王家礼賛を前面に出しながら共に楽しきお正月を過ごしている風な装い見せつつ、この随筆には徒然の日記的な意味合い以外の何ものも意図してはいないことを殊更に冒頭の書出し段階から変化させることなく自然に思い切り行間を割いて体裁を繕うことに腐心したような工夫が見受けられる。
 朝敏は平敷屋へ蟄居となったこの時点から蔡温が降す落書事件への処断が最悪の事態になるであろうことを予期しその結末にタジログことも怖気づくこともなく果敢に立ち向かうだけだと信念を強固にして命を賭しても厭わない覚悟を決断していたのだろうと断定することができる。 だがしかし、反面、朝敏はこの時点で平敷屋友寄組の全員が極刑を免れずに悉く死罪となり家族には流罪の沙汰が降されることになるなどとは夢想だにも及ばずにいたのであろうとも思えるような記述にもぶつかったりもする。
 自らの命を犠牲することで仲間たちは救えるであろうと安直に考えていたのかそれとも仲間たちにはそのような大罪を科されるいわれなどないことを承知なのだから、共に処刑されるはずもないと信じ切っていたのではないだろうかとも考えたりもする。朝敏にとってはどのような断罪を受けようとも元々命を賭け体を張って人生を投げ出した闘争劇であり端緒ッから最悪の結果は見越しての行動であったのだから、たとえ火あぶりの刑でも納得して刑に服するのだろうが、こと仲間の命の事になると重大な責任感を感じずにはおれなかったことなどは容易に推察のつくことでもある。


 そのような予断の許さない緊迫状態に置かれているなかでも朝敏はあくまでも仲間一同の道連れ処刑などの残虐な処断を王府が決定するはずもなく、蔡温が望むべくもないと楽観的に考えていたかもしれないが、それ以上にそのような最悪の結果は行動の初期からの想定外で脳裏の隅っこにさえも浮かばない出来事であって、そんな悍ましい下劣な裁定が降されることになるなどとの予想さえ出来かねるものであったのかもしれないとさえ思えてしまうほどの貧家記でのお正月歳時記の記述である。
  如何に支那人蔡温と言えども先祖代々3百年ほどを琉球人として生き続けているのだから、思慮の範疇が朝敏の想いもよらない法外な決定を持ち出すことなどは論外だったと捉えることも出来る。
 久米三六姓らの久米村の支那人は1300年代末から朝敏らのこの時代まで300年間ほどに亘って次々と定期的に渡来人を追加しているもののその総数自体は大幅な増加はなくまた、ほとんどの家系が直系断絶によって琉球人の養子によって家譜の継承を図っていたことからも考えて蔡温の家系もどこかで支那人血脈から外れていたことも考えられないことでもない。男系系統で家譜継承するのは至難の業であり、ちょうどこの当時の三司官であった名護親方程順則も琉球人の養子であったことなどは史実に明確にされている。
 そんな時代的な背景も考察の材料として貧家記解読を進めて見たのだが、朝敏は王府の落書事件の裁定結果が最終的には多勢に無勢で琉球人の思惑で平敷屋友寄組に分があって回避できる可能性が高確率であることを見越していたのかもしれない。

 しかし、蔡温は別格であった。どこまでも冊封主義を貫き琉球王国を大陸の属国として扱い、反逆行為には大陸の刑罰を適用するに至ってはほとんど大陸の思惑で動く総督のよう存在感を示していたと捉えてもあながち的外れな見解ではないだろう。そうでなければこの当時でさえも日本の刑罰史上にはない大量の公開処刑など考え付くものではない。大陸では数千年もの悠久の時代の流れの中で恒常的ともいえるほどに焚書坑儒の大虐殺がく返し行われている。極端な例などでは国ごと全滅させて敵対勢力を一掃する極悪非道がまかり通っている民族であり国家であることを忘れてはならない。
 蔡温は明らかにこの大陸の刑罰例を倣って処断したと考えるか、大陸に事件報告した結果、大陸から思いもよらぬ焚書坑儒の徹底的な反抗分子の排斥を命令されて止む無くの決断であったと考えるかは推考を徹底的に深めて謎を解き明かしていくことで辿り着ける決着点であることは断言できる。
 しかし、朝敏ら亡き後の流罪にした家族の処遇などの回復措置の実施が行われていないことなどを推察すれば蔡温が琉球王国をこの事件後から完璧な傀儡政権国家として牛耳ることに成功していたと認めるしかない事実がそこにあることを排除してはならない。
 何故かこの頃から300年間継続されていた大陸からの久米村への渡来人がパッタリと途絶えている。このような奇妙な事実関係もこの時代のを境にしての因果関係となるのかをさらにより踏み込んだ事実関係の検証なども必要なので、これらの奇妙で塊怪な符号が点となり線となって難解なパズルを組み立てていくヒントになり得るものだ。

  ともあれ朝敏は、田舎の辛さを記すのは、事一方的に田舎の窮状に言及すれば王府の取り締まり関係者から体制批判の文書として抹殺されることを危惧しての国王への敬愛思慕の記述による書き出しはその後の記述を擁護して見逃させるための裏工作的な作為であると断言できる。
 このことが朝敏の本意であるならばこの貧家記が随筆としての価値よりも革命家の闘争の記録であると捉えるべきであろう。その価値に気づかずに表面的な字面に思いを寄せていたのでは、真の朝敏像を読み解くことは不可能だ。
 題字に貧家と記して貧しいさまを訴えるのはそのままに時の体制批判が込められることになっている、あえてその体制批判を隠蔽するために書き出しに国王への敬愛と思慕を込めて書き連ね、後の重たい精神重圧と労苦貧困の田舎生活の記録的記述に擁護させてこの書物の抹殺を防いでいると考察することが朝敏の思想を受け継ぐことでもある。 唯一、文学的な作品を除いて遺された記録書としての価値を見出すには文章に隠された一語一語一句一句に朝敏の切なる体制への反抗精神を読み解いて後世へ受け継いで伝えるべきであろうと考えている。 皇紀2677年弥生1日 東屋敷平仁 著
東屋敷平仁 解説
東屋敷平仁 記述

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